|
日本曹洞宗は現在日本で最も大きな団体のようです。
二つの本山、永平寺、総持寺があり、曹洞宗宗務庁下に多くの寺院があります。
ご存じの通り、日本曹洞宗は道元禅師からはじまります。
有名な言葉に
『身心脱落・脱落身心』
『佛道をならふといふは、自己をならふ也。』
『只管打坐』
があります。
達磨大師から始まった禅宗は、徹底して悟りを開くための修行をします。
学生の頃、禅宗は自力本願と学んだことを憶えています。
自らが自らの力で、悟りを得る修行をする宗派であることに疑いはありませんでした。
ですから、曹洞宗には開祖道元禅師の『身心脱落・脱落身心』を実証するために、昔の修行僧のように悟りへの修行に邁進している僧侶が沢山いて、日々厳しい雲水修行を頑張っているものと理解していました。
しかし、驚くかもしれません。
曹洞宗には
「曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない」
「道元禅師は悟りを求めてはならないとお示しだから、
悟りを求めることは良くないことだ」
と公言する僧侶が沢山います。
参禅して少し周りを見渡す余裕が出来て来た時、身近にも「解脱を求めない」と公言する僧侶が沢山いることに驚きました。
後に、この「悟りを求めることは良くないことだ」の考え方は、昔から批判され続けられて来た曹洞宗にある「無事禅」と言われる考え方であるとも知りました。
曹洞宗僧侶は本山(永平寺・総持寺)の一二年の修行で僧侶の資格を手にすることが出来ます。
従って、多くの僧侶はそれで修行は終わりになります。
残念ですが、現在では昔の修行僧のような本格的な僧堂修行をする僧侶は少なくなりました。
結果、修行は「行儀 ・作法見習い」で終わることになります。
今日の曹洞宗僧侶は「世襲」がほとんどですので「職業的僧侶」には好都合なシステムです。
しかし当然、本山修行では不十分です。
「職業的僧侶」に満足しない真面目な僧侶はどうするのかと言いますと、勉強をします。
曹洞宗にも「宗学」と言われる道元禅師が書き残した正法眼蔵等を文献的に研究する分野があります。
真面目な僧侶も道元禅師が書き残した正法眼蔵等の文献を「宗学」として「二元相対世界のまま、 一般人と同じように 勉強」することになります。
そして、曹洞宗には駒澤大学があります。
学術研究批判のページでも書きましたが、学術研究で仏法の根本が解明できるとする研究者の存在と、今一つは「伝統宗学」 と呼ばれる道元禅師が書き残した正法眼蔵等を文献的に勉強する研究分野の正法眼蔵を「恣意的に解釈」する研究者・僧侶の存在です。
その存在が「悟りを求めることは良くないことだ」の理論的支えになっているのかもしれない。
曹洞宗の真面目な僧侶も一般人と同じように、正法眼蔵等を文献を読み「宗学」の勉強で終わってしまうようです。
今日の曹洞宗には昔の修行僧のように、悟りへの修行に邁進する僧侶がほとんどいないのです。
駒澤大学に長く在籍し「坐禅の修行は無所得、無所悟をつとめること」と指導した酒井得元氏の存在があります。
駒澤大学で学んだ曹洞宗僧侶は多くいますので、結果的に「曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない」と公言する僧侶が多くなります。
驚くべきことですが「曹洞宗の僧侶だから解脱は求めない」と公言する僧侶は、修行そのものにも「否定的な解釈」を持ち込んでいます。
昔の修行僧がした本格的な僧堂修行の『そのものになる修行』すら認めることをしないようです。
結果、曹洞宗には「似て非なる禅」を語る僧侶が沢山いることになるのです。
更には、曹洞宗内の不祥事をよく耳にします。
曹洞宗の再評価が必要なのかもしれない。
一般人が学術研究批判と同様、曹洞宗批判することは、非礼なのかもしれません。
しかし、明確にしておきます。
「悟りを求めることは良くないことだ」とする考え方は大変な間違いです。
(「禅友に贈る書」にその理由を書いています。
批判にその対象が何であれ「批判することで、自らの優位性を
示し、批判者自身の何かを充たしたい願望の現れ」との見方を
して、その批判を避けることがあるかもしれません。
「禅友に贈る書」にある学術研究批判・曹洞宗批判は「釈尊への
回帰」「解脱への回帰」をお話をしています。)
|