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「禅友に贈る書」を書いた動機

20代の前半から禅に興味を持ちました。本を読んだり、坐禅の真似をしたり、禅との関わりは長いのですが、ほとんどは趣味の世界でした。気が向いたら禅に傾いた程度です。
真剣に「悟り」と向き合ったのは二三年です。

振り返って、理屈では禅が解っていたようです。
「他を探し求めることではなく、自分自身の探求で、自らが決着をつけることで、誰からも助けられることのない道であると、、」
しかし、確信がなく、疑念は残っていました。
やはり「これで良いはずだ。」で、自分自身を誤魔化すことが出来ませんでした。

多くの禅友も同じではないでしょうか。
趣味の世界で禅に親しんで、時に苦痛に襲われると人生を悩み、真剣に参禅し、薄れるとまた趣味の世界に戻る。
悪く言えば、禅に親しんでいる自分に安心をしている状態です。
参禅に「癒しの場」を見つけていることなのでしょう。
何かがあれば、心が落ち着ける場所に行ける、と考えているのかも知れません。参禅が「癒しの場」になっているようです。

これは長く修行をしている修行僧も陥りやすい問題です。
禅修行をしている「自分の姿、有り様」に安心をするのです。
修行をしている自分を眺めて、「参禅している、しっかりと修行している、だからいつかは決着が付くはずだ」と、「信頼できる本物の指導者に参じているし、言われる通り頑張っているし、毎回摂心会にも参禅しているし、やるべき事はやっている。一所懸命にやっている。」と、
傍からみれば、真剣な修行僧です。
確かに今日では珍しい立派な修行僧です。

しかし、厳しく申し上げれば、一所懸命修行しているその姿に安心をしているのです。結果的に、修行しているそのことが、決着の付いていないそのことの、逃げ道になっているようです。
修行が「癒しの場」になっているのです。

 

これでは永遠に決着は付きません。
それは「癒しの場」が残っているからです。
長らく修行をされている修行僧は自問してみることです。
修行そのものが「癒しの場」になっていないかと、、、。

「あなたも釈尊になれる。」一般的には大胆な副題です。
真面目な僧侶から見れば、「勘違い男、勝手な解釈人間、口舌の徒」と言われそうです。
しかし、「あなたも釈尊になれる。」のです。誰でも悟りを開くことが出来るのです。いや、既に誰もが悟りを得ているからです。ただ、そのことに頷けないだけなのです。

「禅友に贈る書」は「あなたも釈尊になれる。」その為の「悟りとは何か」を明らかにし、「いかにして悟る」の道筋を示しています。
また、逆に悟りを開くことが「出来ない理由」を明らかにしています。
更には、「学術研究で仏法が解明できる」とする研究者の解釈の問題を「悟りを求めることは良くないことだ」とする曹洞宗にある考え方の問題をお話しています。


言い方を変えれば、「癒しの場」から「解脱への回帰」です。